万年床より

日記。どこまで飽きずに書けるだろうか。

日記

金曜日は授業が一コマしかない。だから夕方学校に行くのがすごく億劫になる。億劫になるけど、一応ちゃんと通っている。

家から学校までは、徒歩でいくらもかからなくて、寮生と私と、どちらが通学に時間をかけているかと言われたら、向こうの方がかけているだろう。だから私は一コマのために学校へ行くべきなのだ。

 

そんなこと普段考えやしないけど。

 

いざ文字を書こうとすると余計なことをいかにもそれらしい口調で考えてしまう。悪癖だ。

 

今日は11時頃に起きた。洗濯と部屋の掃除をした。人間みたいなことをしている。

明日から友人が泊まりにくるのでそのためだ。

こういうとき、人間は社会的な動物だなぁと思い知らされる。ひとのためなら、人間になれるらしい。

 

これも、書くために思ったのか、思ったから書いているのか、よく分からない。でも、普段の私がそんなことを思っていなかったとして、いまそう思っていることが否定されるわけではないのだろう。

 

洗濯をして、部屋を片付けて、ようやく私という人間でない動物の「巣」が「散らかった部屋」になる。

そのくらい整理整頓が苦手だ。

基本的に、ものを捨てるのが苦手なのである。

 

私の中で、ものの代表格であるのが本だから、そんなふうになるんじゃないかと考えたことがある。

本は、捨てる理由が存在しない。いつ読んでも新鮮で、確実だ。

内容を忘れてしまったとしたら、いつか読み返したときまた面白いと思うだろうし、覚えてしまうほど読んだ本なら、手元に置いておきたいと思う。

文字が読めないほどに劣化したら、そのときはきっと私も本を捨てるだろう。だけど、表紙が破れても、紙が日焼けをしても、文字が読める限りは、捨てる気にならない。

単純に、私は本をそういうものだと思っていると言うだけの話かもしれない。

 

地震被害でその頃住んでいた借家を追われたことがあるのだが、後にも先にも、本を売ったのはそのときだけだ。

おねえちゃんの運転する軽自動車の後部座席とトランクをパンパンにして、助手席に座るのもひと苦労で、それだけの量でも大した金額にはならなかったのだが、あのお金は結局どうしたのだろう。

残った本も進学のときに半分くらい実家に置いてきてしまったけれど、本のない生活というのは思いのほか馴染みがたくて、勿体ないことをしたなと思う。

 

とはいえこれは「本」の話で、今現在私の狭苦しいワンルーム学生アパートを圧迫しているのは「服」である。

捨てるに捨てられないけど、大して思い入れもない。

 

ただ、服に関しては、本当にセンスがないので、取捨選択がうまくいく自信がちっともなくて、結果どれをとっておけばいいのだかさっぱり分からないのだ。

これに関しては、書くために考えたのではなくて、考えるまでもなく書ける、純粋な事実だからどうしようもない。